ヴァージニア日記

アメリカで過ごす中で、毎日感じたことを記します。

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花まつり。

私は記憶力が良い方だと思う。視覚による記憶は特に残り、その時の状況や場所の様子がパッと目の間に現れて来る。ハネムーンの時に泊まったホテルのタイルなんかも。そしてそんな思い出は感情が伴うことでさらに深く心のどこかに残るから、それらの物を見た時には、きっとなんらかの強い「気持ち」が伴っていたのだろう。

毎年ママは、神田川の桜の写真を送って来てくれる。神田川は私にとって実家のすぐ側にある馴染みのある川なのに、私はその川と桜がワンセットになった姿を思い出せない。神田川を思い出そうとすると、小さい頃に良く台風で氾濫し、家のある坂の下の商店街が水浸しになったこと。そして川の方にパパと見に行った時、川添公園付近で胸まで漬かっている人がいたことだけ覚えている。そして、川添公園と書いて、今初めて、川の側にあるから川添公園だったんだ、、と気づいた。子供の私にとってはカワゾエ公園だったから。

私にとってはそんな神田川なのだが、今年もママが神田川と桜の写真を送って来てくれた。

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きれい。
小さい頃にこの景色を本当は観たことがあるのだろうか。観ていたとしたら、こんなに綺麗なのにどうして覚えていないのだろう。

そしてこんな綺麗な写真と共に送られて来たメッセージには次のようなことが書いてあった。

ちなみに本日は4月8日花祭りでお釈迦様のお誕生日ですが、さっちゃんは幼稚園の時に宝仙寺で花祭りの甘茶を飲んだ事を覚えていますか?
では失礼します。


何?花祭り?
お釈迦様の誕生日だと言うことももちろん知らなかった40過ぎの私は、40年前に体験したという花祭りの甘茶を覚えていない。
第一、花祭りなんていう言葉を初めて聞いた。
甘茶?何それ?
何だか楽しそうな言葉たち。

そして私は「甘茶って何ですか?」とママにメールした。

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(画像は幼稚園のサイトからお借りしています)
花祭りは宝仙幼稚園が仏教の幼稚園でしたから結構隣の宝仙寺に行ったのです。お釈迦様がお花に囲まれて、銅かスズの入れ物におさめられているお釈迦様に甘茶をかけます。
甘茶はアジサイ科のお花で小さいけれどお茶花につかいます。その木の葉っぱと根を煎じてつくります。
お釈迦様が誕生の時に甘露の雨を降らして産湯にしたと言う故事にならったものらしいです。
私は大円寺の花祭りには何回か伺いました。
さっちゃんは幼稚園生では覚えていないと思います。
ではお元気で。


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(画像はお借りしています)
甘茶というのは元来は植物の名前なのね。そしてそれを煎じたものをお釈迦さまにかけるのね。
私は「宝仙学園幼稚園」に行っていたが、そう言えば、どこの幼稚園ですか?と聞かれると「ほうせんがくえんかんのんようちえん です!」と答えていたっけ。その言葉は呪文的で「観音幼稚園」だと思っていなかった。カワゾエ公園と同じように。

さて、悔しくも甘茶を覚えていない私だが、一番幼い時の思い出は一体なんだろう。私の友達に、生まれた瞬間を覚えていると言っていた子がいた。生まれてこの世界に飛び出して来た時の光を覚えているというのだ。
もちろん、私はそんなことは覚えておらず幼稚園の時の思い出が一番最初なのだと思う。幼稚園時代の思い出はいくつかある。

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幼稚園で冬に外で遊んだ後、青い缶のニベアを先生が出して蓋をあけ、一人ひとり、指に付けて手に擦り込み嬉しかったこと。
幼稚園の自由時間で、教室の遊び道具の入っている籠に長いお姫様スカートがあり、それを付けて友達と階段の下でお姫様ごっこをしたこと。
付属の幼稚園だったため、おそらく小学校か中学校の文化祭だと思うが、その時、飴がつらなった首飾りを買ってもらい、嬉しかったこと。


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敬老の日だろうか。おばあちゃんと幼稚園に行ったこと。
体力測定で、体にいろいろはりつけられて、自転車を漕がされたこと。
先生との面接で「お父さんのお仕事は?」と聞かれ、何となく「べんごし」という言葉を知っていたのに、間違えたら恥ずかしくて言えなかったこと。
幼稚園からの帰り道、幼稚園の柵、少し高くなっている所を歩くのが好きだったこと。

この後に、

花祭りで甘茶を観音様にかけたこと

と書けたらどんなに良いか。
こんな楽しそうな出来事を、どうして覚えていないのだろう。大人の今だって、体験したいようなことを。
我ながら思い出せないのが本当に悔しい。

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と、なると、もしかしたら忘れているのかもしれないが、今思っても「羨ましい」というような出来事を、幼き私はたくさん体験しているのかもしれない。今の時代は全ては録画されたり写真に撮られるが、私の幼いころはビデオはもちろん写真だってそんなに撮らなかった。
謎の幼少期だ。

私の幼少期の記憶は、いくつかの頭の中の記憶が持っている写真たちに助けられて、何とかラインとなってつながっているような記憶だ。
そして、それらの写真たちを見ていると、幼き頃の自分の笑顔が愛くるしくどんなに幸せだったんだろう、、と涙が出そうになる。

サンルームの隅っこには何冊もの分厚いアルバムたちが追いやられ埃をかぶっている。
こんなにたくさんの写真、幅を取って本当に邪魔ぁ。もう見ないし、デジカメに撮って処分しちゃおうか、、なんて考えていた私なのに、甘茶の写真が無いか探そうとし、埃のかぶったアルバムを膝に、サンルームでぺっちゃんこ座りした。そして一頁、一頁、めくりながら眺め、胸がキュンと言い涙ぐむ。心の中では笑雨、お天気雨が降っていた雨の午後だった。

あ、舘山寺に行った時の写真、見つけた!
舘山寺に行ったことを覚えていない哲に見せよう!


鶴瓶の旅番組の浜松特集で、舘山寺が写り、ここ行ったね~、と言ったら、すっかり覚えていない哲だったのだ。

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写真を見ることで思い出すかな。
それとも、こんな所に行っていたなんて、、と過去の自分を悔しく思うかな。

さて、謎の幼少期の写真をもう少し楽しもう。


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七夕。

七夕は何とも言えぬ切なさを感じさせてくれる行事だと思う。それはもちろん、会いたくてしょうがない2人、織姫と彦星の気持ちが乗っている行事だからなのだろう。でも、それだけではない。七夕と言うと思い出すのはやはり子供の時の七夕で、少し蒸し暑い夕方の湿った空気と古い実家、あの時のおばあちゃん、ぱぱ、ままのことを思い出す。懐かしい古い家。


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になると、ラッキーの散歩がてら、パパは良く私を散歩に連れて行ってくれた。氷川神社へ歩くのがいつものコースだった。犬の面倒もろくろく見ない私は、昼のラッキーの散歩はしぶしぶ行ったりしたものだが、夜の散歩は好きだった。1人では怖くて歩けない氷川神社の道もパパと一緒だと「怖く」なかった。

今年の七夕の数日前、「なでしこジャパン」の試合の日にママからメールが届いた。

さっちゃん、アメリカとなでしこジャパンのサッカー見ていますか?
アメリカはやはり強いですね。
なんとか、なでしこジャパン頑張って欲しいです。ではなでしこジャパン応援してね。


そう言えば、4年前のなでしこジャパンの試合の時も、ママは私に「さっちゃんはアメリカを応援するんですか?日本を応援するんですか?」というメールを送って来た。アメリカに住んでいようとも日本人、もちろん日本に決まってる!と思いながら、返信したのを覚えており、そしてこの日も同じ返信をした。

そのメールの中に、パパのことも書かれていた。

パパは七日に浜松で西高の天文部のクラス会がありますので久しぶりに日帰りで浜松に行きます。
天文部なので七夕に集まります。


その簡単な文章を読み私は切なくなった。

パパとは私が結婚するまで25年間育ててもらい、そして一緒に住んでいたのに、私はパパのことを何にも知らないんだ、、と。パパが天文部だったことも知らなかった。そして、毎年七夕に集まっていたことも知らなかった。

44になろうとしている私は、どうしてあの氷川神社へのお散歩の道でパパはいつも空を見ていたのかがやっと分かった。そう言えば、オリオン座を教えてもらったのもパパからだった。だから私にとってオリオン座は思い出の星座で、冬の夜空に見つけると哲に「ほら、オリオン座!」と教えたりする。あの時、昼にも空を見て、飛行機を見つけ、私の帰国に無事に飛行機が飛ぶかを案じてくれたのも(←クリック)、空を見るのが好きなパパだったからなのかもしれない。そして私が空を見るのが好きなのも、パパと一緒に歩いていたからなのかもしれない。

七夕様はやっぱり切なくなる日。子供に「切ない」という気持ちは存在するのだろうか。いつから「切ない」という気持ちを感じるようになるのだろうか。あの時の小さな私は切なさを知らなかったから、パパとの夜の散歩が「ワクワクする」楽しい出来事だったのなのだろう。そして大人になって「切ない気持ち」を覚えてしまった私は、七夕も、そしてあの子供の時の思い出も、これからずっと切なく思い出すのだろう。

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振袖。

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あんなに小さかったが、もうすぐ成人式を迎えようとしている。誰もが言うように子供の成長は早く、そして時の経つのは早いのだ。ただただ可愛くて大切で愛おしかったあの子がもう大学生となり、今や自分よりもしっかりした女性となっている。その姪はどうやら成人式に私達三姉妹の振袖のうちの一つに腕を通してくれるらしい。

成人式。


昨日のように思い出されるが、でも「遠い昔」ということも分かっている。地元に友達がいなかったから、式には参加せず、家族と時間を過ごした後、当時付き合っていた彼自分の晴れ姿を見せたくて、着物を着て新宿南口まで繰り出した。私服で待ち合わせをする時も、「今日は可愛く見えるかな」なんて考えていた初々しい私だったから、「おかめ」のようなお化粧をしていようとも、いつもと違う「和」服を着ているこの日は、いつも以上に胸を高鳴らせ彼が来るのを待っていたに違いない。

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私よりも遅れて来た彼は、「何か記念になるものを買おう」と行ってくれ、ミロードで1000円のリボン形をしたピアスを買ってくれた。ありがとう。ラインストーンが一つ取れてしまったけれど、大好きでまだ大切に使っているよ、、、、、

成人式と言うと思い出すのは哲とのデートが主で、成人になったことへの感慨やその時の抱負などを全く思い出さないのは、感慨も抱負もも無かったからだろうか。ただ綺麗な振袖を着ることが嬉しかった成人になり切れていない未熟な私と異なり、「母親」であるママはもちろん違う思いを持っていた。そして、そのことに初めて気付いた。いや、知らされた。

ママから「見事な振袖」というタイトルのメールが来た。
たびたびのメールですが、明日カナちゃんが我が家に振り袖を見に来ますので只今振り袖をかけてみました。
3人の振り袖を眺めて昔を思い出して懐かしく見とれていました。
素晴らしいでしょ。


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そのメールの後、ママと電話で話したのだが、私達の着物を「思い入れのある大事な着物」と形容していた。赤ちゃんだった姪が成人になるというのでもこんなに感慨深いのだから、手を焼いて育てた娘たちが成人に達した時の母親の気持ちはそれはひとしおなのだろう。犬のハルの成長を振り返っても心にグッと来るのだから、それがお腹を痛めて産んだ子供の成長となれば、想像を絶するものがある。

こうして見事な振袖の写真が送られて来た数日後、またママから写真付きのメールが送られて来た。
タイトルは「懐かしいでしょ」

私は本日やっとお振袖3枚に防虫剤を入れて片付けました。何十年ぶりかでお振り袖を虫干し出来て良かったです。
そしていろいろと探していたら、さっちゃんが小さい時に来ていたおばあちゃんが編んだ洋服が出てきました。
本当に懐かしいですね。


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うわぁ、これは懐かしい。まだ存在していたなんて!
振袖を見た時も懐かしく思ったが、それは自分が着たことを覚えているから懐かしかった。このチンチクリンで可愛い服は自分が着ていたことはもちろん覚えていないが、写真でいつも見ていたものだった。小学生、中学生、高校生、大学生、そして社会人になっても自分が着ているのを写真で見ていた服だった。でも実物を見たことはあっただろうか。
大のおばあちゃんっ子だった私は、「おばあちゃん」という言葉がつくと何でも胸にキュンと来る。改めてこの服がおばあちゃんによって作られたことを認識し、案の定、キュンと来た。おばあちゃんが編んでくれたお洋服。。。。懐かしい。

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この手編みの服にもママは私とは違う気持ちを抱いているのだろう。ハルを引き取った時に付けていた黄色いカラーをふと見る機会があると、私はいちいち手に取り、そして懐かしむ。輪っかを広げては「こんなにハルの首は細かったんだ」と懐かしむ。そんな気持ちなのだろうか。

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この小さな温かく可愛い服を着ていたチンチクリンなあの子がこんな立派なお振袖を着るなんて、、。
ママは成人式でそう思ったのだろうか。

ところで振袖はやはりさっちゃんが1番行動的だからお振り袖の裾が少し汚れていましたよ。

あ、やっぱり。ミロードでピアスを買ってもらった後、新宿御苑に行き、散歩して、哲は嬉しそうに私の写真を撮っていた。あ、あの写真、どこに行ったんだろうね、哲。ママに汚れの謎を教えてあげた。

姪が成人になることでママの振袖への思いを知り、そして懐かしい気持に戻ることが出来た。そして、あのピンクの振袖には、着物をを着るのがただ嬉しかった二十歳の娘の気持ちと共に、娘の成長を喜んでくれた母親の気持ちが加わり、私にとっても「思い入れのある」振袖になった。

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「私の」実家。

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「マンション」というカタカタの響きと和風では無い家に憧れた子供の時、純和風な古い我が実家が嫌いだった。どうしてそんなことが恥ずかしいのか、と思うようなことを子供は恥ずかしがるものなのだろう。ベッドでは無くてお布団で寝ること、畳の部屋があること、自分の部屋が無いこと、全てが恥ずかしく、だから友達もあまり呼びたくはなかった。

生まれた時からお世話になったその東中野の家は、アメリカに住み始めた30になる頃には、温かい思い出で一杯の家と変わっていた。(←クリック古さも畳も何もかもが懐かしく、幼少時代から家を出る前までのことを一つ一つ大事に懐かしみ思い出し、そして思い出してはまた大事に胸にしまった。

そろそろ家を建て直そう。

そんな話は私が自分の部屋を欲しくて欲しくてしょうがなかった中学高校時代に出ず、私が古い家を日に日に恋しく思いながらアメリカで過ごしている間に湧いて出た。昭和の思い出でいっぱいの、みしみしと音を立てるあの古い家は、そしてあっけなく取り壊された。あの時アメリカにいて良かったと思う。もし日本にいたなら、私は育った家に別れを告げずにはいられず、でも心は告げることが出来ず、思い出が壊されて行く様子を哀しく涙して見届けなくてはならなかったことだろう。

赴任後、最初に日本に帰った年、実家は一時的な家に引っ越しており、そこで居候し、そしてまたその次に日本に帰った時には、あの古い家があった場所に建つ綺麗な新しい家にお世話になった。

初めてその新しい家に足を踏み入れたのはおそらく12~3年前なのだろう。到着するとすぐにママが、「ここがトイレでここがお風呂で、ここが二階で、仏様のお部屋で、、」と案内してくれたのを覚えている。当時は佳世ちゃんがまだ住んでいて佳世ちゃんの部屋があった。自分の部屋をやっと持つことが出来るようになって良かったね。

実家なのに自分が育った部屋が無いことに胸のどこかで寂しさを覚え、馴染みの無いその家は私にとっては「誰かの家」だった。昔の家はプライベートのスペースが無いと文句を言っていたくらい全てが共有スペースで、我が物顔で佳世ちゃんのエリアに侵入したり、パパのエリアを覗いたり出来た。新しい家は、当たり前のようにそれぞれの部屋にドアが付いていて、そのドアが私を拒んでいるように見えた。ただいま~!と両親の元へ戻って来たものの、そこは「私の家」では無くなっていた。

当たり前なのだろう。25年住んだ家にどうやって新しい家が私の心の中で打ち勝つことが出来るというのか。

初めての「新しい実家訪問」から私はずっと海外に住み続け、2~3年ごとに実家に戻る生活を繰り返している。毎回「実家に帰る」と言うと、私の心の中にはみしみしと恥ずかしい音を立てるあの古い実家が真っ先に思い浮かび、あの門をあけ、あの玄関を上がることを想像してしまう。

ただいま~!
あぁ~、さっちゃん、着いたのね~!まぁ、また大変な荷物!良く一人で持って来たわねぇ~!
あ、スリッパも出さないで、そうなのよ、最近気が回らなくなってね。さっちゃんのスリッパはこっちだっけ?
あ、こっちこっち。これこれ。

2015年帰国。ふと気づいた。私の中で「実家」がいつの間にかこの新しい実家に代わっていた。スリッパも馴染みあるスリッパ。昨年履いたもの。

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ドアを開けてすぐに香った「実家の匂い」あぁ、この匂いだった!帰って来たんだ。。
リビングに入りアンディに挨拶し部屋を眺める。
あぁ、変わってない。本当に帰って来たんだ。
蛍光灯が輝く明るいキッチンから香って来る煮物の香り。ママの姿。全てが懐かしく恋しい。でも、その恋しい様子はもう目の前にあるから恋しく思わなくて良い。

この新しい家には合計しても3か月ほどしか宿泊していないだろう。でも、15年の中のその3か月、密に面倒みてくれた両親、寝させてもらった部屋、お風呂、何でも出てくるキッチン、パパ、ママ、アンディの3人家族。寝る部屋は佳世ちゃんの部屋を乗っ取らせてもらい、ドアのある佳世ちゃんの部屋を使わせてもらい、私にもドアのある自分の部屋が初めて出来た。

古いあの家に別れを告げることがやっと出来たような気がした。そして私に「実家」がまた出来たような気がした。やっと出来た。

ほんの10日間。でもその間にもパパ、ママ、アンディと作った思い出はたくさんで、こうしてまたこの家が思い出に溢れた家となっていく。
ありがとう、パパ、ママ。

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またいつの日か、戻ってきます。またいつの日か、あの温かいキッチンでハマグリ焼いてくださいね。


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暖かかった日、梅の花が咲きほころぶ。以前の古いあの家から植え替えられた梅の花。私の小さい頃を見ているこの梅は変わらず40年後も私を見守ってくれていた。

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24年前のお詫び。

12月2日 火曜日の朝。仕事は午後からの哲と一緒に雨の中、車に乗って買い物に行く。アメリカでは「傘」をさす人が少ない。歩くことが少ないからなのか、それとも「多少濡れたって」というおおらかな性格からなのかは分からないが、アメリカに来た当初はその様子を見て驚いた。置き傘までしてまさかの時に備える慎重な日本文化から来たばかりの私には衝撃的な文化だったのだ。それがアメリカに長くいるにしたがい、いつの間にか自分達も傘をささなくなり、防水のジャケットを着ていればそれでよしと思う人たちになっていた。

この日は珍しく日本のような一定した雨脚を持つ雨だった。濡れて風邪引くと嫌だからと私は15年前に哲のために買ったワンタッチの緑の地味な折り畳み傘を手に持っていた。目的地に到着し車から降りながら傘をさす。「哲は大丈夫?」そう聞くと「うん、ジャケット着てるから平気。」と言ってエンジンをとめ哲は車から降り、フードを頭にかぶって歩きだした。そんな哲を待って、私は傘をさし出した。あいあい傘、久しぶりだ。

24年前の雨が降っていたある日、19の私は上野さんに傘を差しだしたことがあったのだ。一ツ橋の校舎からテニスコートに向かう間のほんの少しの距離だったが、傘の下に出来る見えない壁を持つ狭い空間に、一緒にいると思うだけで胸がドキドキした。今の私は傘の軸を境に同じ空間に哲がいてもドキドキなんてしていない。人はよく「空気」のような存在になった、、と深まる関係を表現するが哲は空気ではない。当たり前にいるけれど、それだけでは無い。あの日、あの時、もし付き合おうと言ってくれていなかったら存在していなかったこの関係は、24年の間にいろいろあって、「当たり前」の関係と簡単に表現することは出来ないのだ。空気のように当たり前にあるけれど、空気以上のものなのだ。

24年前の12月3日、詳しく言うとこの日の夜9時過ぎ、三井ビルのイルミネーションの前で私達は「恋人同士」になった。この日はミックスダブルスが開催され、その大会に上野さんが後輩の私に声をかけてくれたのだ。「女子」が「男子」にお弁当を作って持って行くことが恒例となっているこの日、料理の「り」の字も知らない私は「自分が作る」という行為に自信が持てず恥ずかしくて、何も作らずに出向いたのだ。事前に「お弁当は作れません!」と予告した私に「おにぎりだけでも良いんだよ。」と上野さんは言ってくれたが、おにぎりすらも握ることは出来なかった。

24年後の12月3日、朝、キッチンのブラインドを見つめながらおにぎりを握る。おにぎりを握る時は、私は手を見ずに前を向いて握る。ドキドキもせず、ただ哲のことを考えて、手に愛情と力を込めておにぎりを握る。2つのおにぎり、大抵具は違う種類をいれるのだが、哲の性格を考えて「きっと後に食べたい方があるだろう」と哲が好きな「ツナ」には分かるようにビニールテープにマジックインキで「ツナ」と書き、ぺったんと貼った。もう1つは哲の好きな塩昆布。ゴマと合わせて混ぜ握り、こちらはおぼろ昆布を巻いて置こう。それとちょっとしたおかずを入れた簡単なお握りお弁当。あぁ、あの時、どうしてこれくらいのことも出来なかったのだろう。

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「お弁当作り」は、哲との人生でとても大事な軸、2人の架け橋となっている気がする。仕事中忙しいから外に食べに行く時間がもったいないとチリの時代から始まったお弁当作りは、テキサスでは主旨が変わり節約生活のために続けた。学校の友達が美味しそうなハンバーガーやサンドウィッチを買いにに行ったり食べに行ったりしていても、たかだか3ドルのサンドウィッチをももったいないと常にお弁当を持って行った。そしてヴァージニアに戻ってからは若干の贅沢が出来るようになったこともあり、具にもこだわったりし、お弁当作りは方向を変え、私の力み具合に拍車がかかった。エスカレートするその拍車をストップさせるために、一時期お弁当休み期間を設けたが、哲が倒れてからは哲の健康を考えて簡単でも何でも良いから「手作り」を持って行ってもらうことに決めた。

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こうしていろいろ変化を遂げているお弁当作りは、簡単で地味な装いなのに今が最も輝いているような気がする。前の晩から何を作ろうと考えて眠れなくなっていた数年前、今は朝起きてから考え、肩の力を抜いて、ただ哲のことだけ考えて、用意することが出来るようになった。とにかく哲が「ランチ」のことは気にしないで安心して仕事が出来るように、そして楽しみに出来るように、「私に任せておいて」という気持ちで準備することが出来るようになった。そして、お弁当も哲にとって「空気」のような存在になってくれていたら嬉しいなと思いながら握った今日のおにぎり弁当には24年前のお詫びを添えた。

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ごめんなさい。

それは言わない約束だよ。と今の哲に言われるのが分かっているから、これは24年前のまだ夫婦にも恋人にもなっていない足立からの言葉です。
お弁当を差し出しながら、、

はい、行ってらっしゃい。
気を付けてね。


と、見送った。

24年前のあの日、青かったあの青年が今はこんな素敵な「大人」になっているなんて想像もしていなかった。そして24年後のこの日、私がこんな風にお握りを握ることが出来るようになっているなんて想像もしていなかった。

ハッピーアニヴァーサリー。

24年前のあの若い二人に、今の二人を見せてあげたいと思った朝だった。

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