ヴァージニア日記

アメリカで過ごす中で、毎日感じたことを記します。

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成長。

彼是45年生きている。
まだ成長するのだろう。いや、しなくてはならないのだろう。

成長期はとうに過ぎた。身長が同じくらいになった大学生の姪っ子に「あ、かな、もう背は止まったんだね。」と渋谷の街を横に並んで歩いていた時に言った。「うん、もう止まったよ!」
小学生6年生から中学生にかけて、佳奈同様に私はぐんぐんと背が伸び、成長し過ぎる自分が本当に嫌だった。その肉体的な成長は高校生、大学生の時でさすがに止まってくれた。あれから身長は伸びていない。成長していない。

身体的にでは無く、人は成長し続けなくてはならないと思う。人が「人として」成長するには様々なことがきっかけとなる。思春期もそうだろう。今まで気にしていなかったことを急に体で感じ始め、心で思い、葛藤する。その葛藤が思春期というものなのだろうが、私はその時期にそんなに悩んだ覚えも無く、心はそのままに身体だけ大きくなった。二十歳を過ぎ社会人になるのも、人が成長するのに大事なことなのだろう。しかし、ここでも私は環境に恵まれ、揉まれることなく過ごし成長を逃してしまった。そして結婚。もちろん、他人と始まる新生活の中ではいろいろな問題が起こるもので、例外にもれずこんな私達にもいろいろ、、とまでは行かなくとも、それなりのことはあり、乗り越えて来た。成長したのかは分からないが、何かを学んだのは確かだろう。

こうして身体だけは一丁前に心は成長せずして大人になってしまった私は、その後、多くの人が持つきっかけを持つことが出来なかった。子供がいないことに劣等感を感じている訳ではないが、やはり自分は「母親」では無いことで「女性として」学ぶべきものを学んでいないような気がするのだ。「子育て」を経験していない私は「人として」成長し切れていないような気がしてしまう。子供を育てるのがどんなに大変なことなのかは想像しか出来ず、子供を持ってこそ感じる喜び、悲しみ、切なさ、怒りは感じることが出来ない。そう言えば、数年前の帰国の時にこんなコマーシャルを観た。(調べたら数年前と思っていたのは10年以上前だった)

「人生で一番嬉しかった時のことを思いだして演技してください」とスマップの中居くんが聞かれるのだ。
そして中居くんは、「よっしゃーー!」と両手をあげ踊るような素振りを見せる。
これを見た時、こんな風に喜んだことあるかなぁ、、と一緒に観ていたママに言い、そしてママに聞いたのだ。
「ママ、人生で一番嬉しかった瞬間っていつ?」
「そうねぇ~」と考えたママは「入試の結果を見に行って、番号を見つけた時かしら?」
やはり子供にまつわることだ。

思春期でも悩まず、社会に出ても揉まれずして大人になってしまった私は、遅過ぎる思春期とばかりに35あたりで急に悩むようになり苦しい思いもしたが、それでも人より成長出来ていない気がする。人間は死ぬまで勉強、成長するものだとは良く言うけれど、今のこの状態から次なる「成長過程」は一体いつなのだろう。まだ成長出来るのだろうか。

子供を育てるのが親の仕事だ。もうとっくに親から巣立ったはずの45になろうとしている私は、未だママやパパに育てられ、そしていろいろなことを学んでいる。もしかしたら離れているが故に、子供の時以上に、今、心配をかけているのかもしれない。人は生まれた以上「親ー子」という関係を必ず持つもので、それが「親ー子ー孫」とつながっていくのだろうが、私の下には続きは無いから私が唯一持っている縦の血縁関係は「両親―私」。もしその「両親」がいなくなってしまったら、、、。私は一人ぽっちになってしまう。

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今回の帰国で1年半ぶりに会ったパパとママが、1年半前よりも歳を取っていることは否定しようがない事実だ。コミュニケーションツールがメールや電話だけだと、自分が年を取っているのと同じスピードでパパとママも歳を取っていることを忘れてしまい、遠くにいながらも小さな時と同じように甘えてしまう。今回の帰国で目の前に二人を見、そしてやっと気付けた
パパもママももう歳を取った。もう子供のことは心配しないでゆっくりさせてあげたい。

自分は「親」ではないからこれまた想像なのだが、親は死ぬまで親なのだろう。「私はいまだ両親に甘えてばかり」と言うと「親と言うのは甘えられるのが嬉しいのよ」とよく人に言われるが、本当にそうなのだろうか。でも、もう甘えてばかりいては駄目だ、と思った。やっと思った。

親は最後まで子供に何かを教え続けるものなのだろう。生まれてからずっと側にいて、何かというと助けてくれる親がいなくなった時、その時また人間はぐんと成長出来るのかもしれない。そう、最後の最後に背中をぐーーーっと押してくれるのが親なのだろう。さぁ、1人で頑張りなさいと。

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パパは歩くスピードが速い人だった。そのパパの歩くスピードが遅くなった。
ママは思ったことをすぐにしないと気がすまない人だった。でも体が無理な時は無理をしないでいてくれるようになった。

まだ子供のままの私は、二人を見て、成長しなくてはと焦りを感じる。体だけ大きくなったのに、まだ心の中は小学生みたいな甘えん坊の自分。
しっかりと頑張らなくては。

親孝行とは何だろう。
きっと何かをプレゼントしたり、何かをしてあげることでは無くて、しっかり生きていますと安心させてあげることなのかもしれない。

パパは以前言っていた。
親に心配をかけるのが一番の親不孝だと。

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親孝行は出来ないかもしれないけれど、親不孝なことはしないようにしたい。
安心して。
私、しっかり頑張るから。


もうすぐ45になる。
甘えん坊のさっちゃんがこの一年で少しでも成長出来ますように。
しますように。
します!

何て言って、今度帰国する時にはまた、パパとママに甘えてしまう45過ぎのさっちゃんなのだろう。


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指先が見えなくなるまで。

「この人と共に生きて行こう」と決意する理由は人それぞれなのだろう。私の場合はただ一つ。それは多くの人がそうであるように、「この人」と一緒にいたいから。明後日、「この人」に向かって手を振る日が来る。帰国の日が近づいて来た。

大学生の時、毎日のようにテニスコートで会っていた先輩と、その後ご飯を食べたりし、そして別れる。ご飯を食べ、そして先輩のお腹をぎゅっと抱き自転車の後ろにしがみつくように乗り、国立駅まで見送ってもらう。先輩に時間のある時は、先輩は入場券を買って一緒に入り、そして東中野駅まで見送ってくれた。東中野の古い細いホームの階段のところで、今度は三鷹行きの電車を一緒に待つ。電車が来た。先輩が電車に乗り、ドアが閉まり、先輩が見えなくなる最後の最後まで手を振った。一人ぽっちになり、階段を登る。
帰りが遅くなった時は、少しでも早くに家に到着しなくてはと、東中野のホームに先輩を残し、改札を出て、駅構外からホームが見える所に立つ。手を振る。大久保からやって来た電車がすごい勢いで二人を分け、そして停車する。先輩は電車に乗り、窓から手を振る。お互いに口をパクパクして話し、最後に「バイバイ、、」と口を動かし先輩は消えて行く。一人ぽっちになりとぼとぼ歩く。
先輩に時間の無い時は、私だけ改札から国立駅のホームに入り、そして駅の外で先輩を見下ろせる場所へ移動する。あ、いたいた。
手を振る。電車に乗った私は、ドアの部分に陣取り、そして集中力を高める。一瞬だけ、駅の壁が途切れて先輩が見える場所があるのだ。そこへ先輩は移動しているはず。ほんの一瞬。そして、その一瞬が来た時に何度も手を振る。そして私は空いている席を探し、電車に揺られて1人帰る。

結婚して、あぁ、もうあのバイバイをしなくていいんだ。と思った。そして、どこへ行っても一緒の場所へ帰り、いつでもそこにいれば会える場所を持つことは本当に幸せなことだと実感した。哲、お帰り。哲、ただいま。幸子、お帰り。幸子、ただいま。

結婚後、何度も哲は海外出張があり、長い場合は3週間も家に帰ってこないこともあった。でもなぜか、その時は今のようなこんな寂しさを感じなかった。不安も無かった。

結婚してもうすぐ20年になる。空気のような存在になっている人との別れは、新婚時代よりも辛いものなのだろうか。結婚して20年経ち、私達はお互いに依存するようになっているからなのかもしれない。
自分がいなくてこの人は大丈夫だろうか。
別れる辛さもあるが、哲のお世話をしてあげられない辛さが今はある。

私なりに家族3人を面倒みているんだ、と思った。自分がいない間、誰がこの3人を面倒みてくれるのだろう。
大人なんだから、自分がいなくても大丈夫だと言うことは十分分かっているのに、ずっと一緒にいて、何かをしていてあげたい気持ちがこみあげて来る。

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明後日、ここを少しだけ離れる。ぎりぎりまでそのことを考えないようにしていたが、そろそろ考えなくてはならなくなった。
雷が来た時に誰がこの子と一緒にいるんだろう。仕事から疲れて帰って来た哲はどうやってご飯を用意するんだろう。

ねぇ、もしクルミが帰国の間に逃げていなくなったらどうする?昨日、哲に聞かれた。
もちろん戻って来るに決まっているじゃない!
何が出来るわけでもないかもしれないけれど、戻って来る!絶対に!


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そう、何が出来るわけでもないけれど、自分がいないと駄目だと思える家族を持っているんだ。

結婚の理由はバイバイしたくないからだけでは無く、自分がいないとと駄目だと思える相手を持ち、自分が強くなれることなのかもしれない。

行って来ます。
すぐに帰って来るからね。


きっと明後日、先輩は税関に入る入口で、私が小さくなるまで大きく手を振って見送ってくれるんだろう。指先が見えなくなるまで。

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毎年。

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日々思うことはあり、その一つ一つの思いを大事に覚えておきたい。だから、こうして日記を綴ろうとしているのだが、時間があるように思われる私でも、なかなかその時間は作ることが出来ないものなのだ。時間は容赦なくさらりさらりと流れて行き、そしてその大切にしたかった気持ちも一緒に流れて行ってしまう。たまっている気持ちがあり、時系列にしたら順番待ちになってしまう今朝感じたこの気持ちは、特例で1番前に出そう。絶対に忘れたくないから。そう思えた気持ち、思わせてくれたことを大事に覚えておきたいから。

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言葉に出さないようにしているがここ3年、6月になると、モクモクと灰色の雲が心の隙間から現れる。きっと哲も同じだと思う。お互いに分かっているから敢えて口にはしない。忘れたくても忘れられない出来事、忘れたいとしても忘れてはならない出来事は、哲と私にとって辛い出来事であると同時に今の自分達に大事な出来事だ。だから、敢えて口に出して安っぽくしたくないという気持ちもあるのかもしれない。

3年前の6月、哲は命を失いかけた。(←クリック)でも、哲の生命力が勝り、今、ここに哲はいる。

ハッピーエンドで締めくくった話しだが、あの時の怖さは拭い去ることが出来ず、幸せを感じる日々の中でも時々「ハッピー」が消えることがある。6月だけでは無く、ことあるごとにふと思い出しては、鳥肌を立てる。現場がここだから、思い出せるきっかけとなるもので生活の中に溢れているから仕方ない。

渦中にいた時はとにかく必死だった。だから、入院中であっても哲が命をとりとめたことの喜びの方が大きく、二人は前を向いて輝いていた。この3年、体に気を付けて生活してきているが、少しでも体調が悪そうな様子を見ると、あの時のことが蘇り、怖くて怖くて仕方なくなる。3年前の病室で前を向いていた2人は、今は「気を付けて生活する」ようになり、勢いで進み頑張っていたあの時の2人は、保守的となったと言っても良いのかもしれない。
運が悪ければ存在し無かったかもしれない大事なこの3年の中、「もしかしたら、また」という思いが時々頭を出したり引っ込めたりする。

今日は義理の妹美佐ちゃんの誕生日だ。美佐ちゃん、おめでとう。前日にお母さんには「もうすぐ美佐ちゃんのお誕生日ですね」とメールを送り、そして日本時間の当日、最近やっと始めたラインなるもので美佐ちゃんにメッセージを送った。

そして、今朝は、お母さんからメールが来た。

今日は美佐の42歳のお誕生日です‼️
たった今美佐に、おめでとう! のメッセージを送った所です。
未熟児で産まれた美佐のお腹に、しこりがあると先生に告げられた時は、
自分の後頭部を思いっきり殴られたようで、立っている事が出来ませんでした。
その後美佐の方が先に退院をしたので、母に引き取りに来て貰い、
哲宏の居る福岡西戸崎に連れて帰って貰いました。
私の退院を待って、今度は美佐の大手術! 2500gの小さな体に、
あちこち10本位の管を付けられている美佐を、ガラス越しに見ながら、
元気にさえ育ってくれたら…と祈っていました。
毎年この日になると、その時のことが思い出されます。
哲宏の病気の時も同じ気持ちです。。。
直ぐにでもアメリカに行かなくては!と思っていました。
幸子さんは何倍も辛く、大変な思いをしましたね。
皆んながナントカ少しの幸せを感じていってくれたら…私もhappyです‼️


このメールを読んだ早朝、体全部が心だけになったようで、そしてその体全部で泣きたくなった。

お母さんが大変な思いをして美佐ちゃんを産んだことは以前聞かせてもらった。(←クリック
でも、その後、生まれたばかりの美佐ちゃんがこんなに大変だったなんて知らなかった。何よりも何とか母子ともに無事にこの世界に残れたと思ったのに、その後の先生からの告白はどんなに辛いものだっただろう。後頭部を思いっきり殴られたような気持、、、、想像が出来ない。
そしてその気持ちを、お母さんは「毎年」この日になると、思いだすと言うのだ。
私はたったの3年。お母さんは42年
お母さんが命をかけて産んだ2人はお母さんの強さを持って、今、生きている。

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先日白内障の手術をし、しばらくの間、髪の毛が自分で洗えなかったお母さんの髪を、あの時、2500gの小さな体に10本の管を付けていた小さかった美佐ちゃんが洗ってあげたと聞いた。良かった。お母さんに美佐ちゃんがいて、そして美佐ちゃんにお母さんがいて。良かった。

美佐ちゃん、おめでとう。そしてありがとう。

あぁ、私はまだまだだ。まだ3年。
哲、これからも毎年あの日のことを思い出し、強く逞しくなっていこうね。
そして今ある「命」、お母さんからもらった「命」を大切にしていこうね。

哲の髪の毛を毎日洗っていたあの日のことも懐かしい。
これから何年も、毎年、思い出して行こう。

またお母さんから教えてもらった。
お母さん、ありがとうございました。

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幸せにします。

40年以上も生きて来た中で、自分の人生について真剣に考えたのは恥ずかしながらおそらく2度しかない。節目と言える大学受験就職活動も、「自分」を考え、自分が何をしたいのかを考えたものの、悩みに悩んだとは思えない。結婚ももちろん大事な人生の節目だが、7年近く付き合っていた哲との結婚は「考える」というよりも「気持ち」と「流れ」に乗って選んだ道だった。今まで真剣に「人生」と「生きていくこと」を考えたのは、一度目はチリ、そして二度目はテキサスにいた時だった。そして、三度目が訪れた。

「平凡」な人生なんてこの世に存在せず、当人は気付かずとも誰の人生もいろいろあるものなのだ。結婚してから歩んで来た道を振り返ると、私もいろいろあったと思う。そんな「私(達)の人生」は人には「刺激的な人生だね」と言われることが多い。人と「人生」を比較するなんてはなはだ馬鹿げていることだが、もし馬鹿を承知で比較したとしても、他の人と「異なって」いても何か特別なことをしているとはやっぱり思わない。日本人なのにアメリカに住んでいるというのが特別なことならば、特別なのかもしれないが。

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「特別」では無いが変化に富んだな生活を送って来たのは、でも確かだ。結婚し、渡米し、チリへ行き、哲は仕事をやめて学生になり、私も学生となって二人で節約生活に乗りだし、仕事も無いのにワシントンDCへやって来て、哲は仕事を見つけ、そして今になった。仕事が落ち着くまでに数年かかり、順調と思っていた時に哲が倒れ、そして一年。やっと落ち着いたと思った頃にクルミを迎え、今度はクルミが生死をさまよいまた一年。そして今度こそやっと落ち着いたと思った時に、私は「自分」の生き方を考えるようになった。それは「変化」を必要としていたからなのだろう。

振り返ると、今までは何かに必死だったり、誰かを支えてあげたいと、真剣に「自分」を考えていなかったような気がする。

このままで良いのだろうか。この先、何を目指せば良いのだろうか。私は何がしたいのか。どうやって生きたいのか。どうしたら社会と関わって行けるのか。

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今の生活が大好きで、毎日幸せに満ち足りている。だからこそ、それに甘んじたくは無いと思った。
悶悶と考えること1か月、そして哲に心の内を打ち明けた。

「それは今の生活に満足していないってこと?」とやっぱり哲は聞いたがそうではない。満足しているからこそ、自分に残っている力を何かに活用したいと思ったのだ。

「したいこと」と「出来ること」は違う。頑張るのは得意だから頑張ることは出来るけれど、でも「したいこと」をしたいのだ。
「自分」を見つめ考え、可能性をいろいろと想像したが、どの道を取ってもその道を行っている自分は無理をしていて、自分を励まし頑張り続けなくてはならない道だった。

したいこと、、、、、何かを犠牲にしてもしたいこと、、、。そしてそれを犠牲とは思わないくらい欲しているもの。無理を無理と思わないこと。

そんな時、一本の道へ続く入口が目の前に現れた。

全てがまとまった。これならすべてを犠牲にしても「手に入れてしてみたい」と思えたものだった。そしてみんなが幸せになれると思った。未来が明るく輝いた。

哲!これだよ!

哲には迷いがあった。結婚してから何か大きな決断をする時はいつでも2人同じ考えだったから、一緒に頑張ることが出来てきた。意見と気持ちが食い違ったのは初めてのことだった。

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お互いに言い合ってもプラスの方向へは進まないから、お互いに1人で考え、数日後にまた相談することにした。私は「してみたい」気持でいっぱいになり、心も頭もそのことでぎっちりと詰まった日々だった。そんな時のフィラデルフィア旅行だったから、楽しむことが出来るだろうかとキャンセルすることも考えたが、その間にゆっくり話そうと言うことで、車に乗ったのだ。そして旅行中、何度かゆっくりと二人で会話した。

同じ気持ちを持っていたら、一緒に突き進むことが出来るのに、私1人では無理だと思った。もし、哲が賛同しなかったら、したいことでも諦めるしかない。哲が私と全く同じレベルの気持ちを持っていないのは見てとれた。だけど哲が言った。

思い出したんだよ。
あの時、病院にいたあの時、
「これからは幸子が幸せになることなら何でもしよう。」って思ったんだ。
だからその道を歩んでみよう。


19年前の大晦日、歳も暮れようとしている時に、もう寝ているパパを起こして来て、古い家のダイニングテーブルに座り、そして哲は水色のパジャマ姿のパパに真剣な顔で言った。

幸子さんと結婚させてください。
途上国に行くことがあるかもしれません。心配をかけるかもしれません。でも幸子さんを、、、、、


幸せにします。

パパは人の考えを寛大に受け入れることが出来る人だとは分かっていたが、その時も「はい、いいよ、いいよ」という感じで物足りないくらいにあっさり頷いてくれた。

あの時、哲はもちろん心から真剣に「幸子さんを幸せにします」と言ったと信じているが、でも結婚して19年が経った今、哲が私に向かって言った「幸子が幸せになることなら何でもしよう」と言った言葉には違う重みと気持ちがあり、普段だったらポロポロと涙する私なのに、驚きと共に心にストレートに来た言葉だったため、涙すらも出すことが出来ず、ただただ喉が詰まってしまった。

困難なほど 向かう道が 正しい証拠なんだ (槙原敬之 ALONE から抜粋)

だから、例え困難でも進んでみよう。

ところが、進みかけたその道は、自分達がどんなに頑張っても限りなく不可能だと言うことが分かり、方向転換をしなくてはならなかった。もちろんそう知った時は辛かった。でも頭と心を使ったこの2か月、何度も2人で「これからの人生」を考えることが出来たのは、二人の結婚生活の中で、大事な出来事だったと思う。それに、哲のあの言葉を聞けただけでも、2か月泣いたり悩んだりした甲斐があったと心から思えた。これからもこうして2人で相談し、2人の道を考えていくような夫婦でありたいと思った。

今日も「日常」が過ぎて行っている。日々を「常」にしたくないから、常に新しいことを考え目指していきたい。40になっても「自分が何をしたいのか。」がまだ分かり切っていない未熟な中年女で、いつになったら地に足ついて進んでいけるのかも分からないが、とにかく今は進むしかない。私の目標は天国に行く時に「あぁ、私が生まれて来た意味があった。HAPPY BIRTHDAY TO ME」と思えるようなことをすること。大きな大きな目標だが、叶えるために日々進む。

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哲、私と一緒に悩み考えてくれてありがとう。

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フカヒレのおそば。

ハルが嫌いなあのメロディーiPadから流れて来た。

あ!フェイスタイム!誰だろう?

ピンクのカバーを開くと、パパの顔が映っていた。

パパからフェイスタイムがあったのは、哲が倒れてERに運ばれた2年前以来な気がする。
咄嗟に何かあったのかと案じ、挨拶をする前に「どうしたの?」と言ってしまったが、タイミングを考えて、あ、そっか、父の日のプレゼントが届いたんだ!と思い直した。

上野君、大丈夫? パパは言った。

それは2年前と同じように心配する顔だった。
哲の体調が優れず、私が過敏に心配していることを知ったからだろう。哲と私、2人の顔が画面に映る様に座り直し、「大丈夫ですよ!」と横に陣取っている哲が笑って言った。

心配でね。無理しないように。元気そうで良かった。

電話自体好きでな無いパパが、就寝時間も迫っているというのにパジャマ姿でフェイスタイムをして来てくれたこちらの朝、私は心配かけてしまったことを悪かったと思うと同時に、心配してくれる人がいる安心感で心臓がキューっとし、パパとママの優しさを恋しく思い心の中で涙した。

その日は午後に前髪だけ切ってもらうために美容院の予約を入れていた。ほんの15分ばかりの間だが、久しぶりに会った美容師のKさんとあれこれと楽しく話す。気取らず話す様子に私は可笑しくて可笑しくて、手を叩きながら笑う。そうだった、私は笑うとすぐに涙が出て来てしまうのだ。マスカラが落ちないようにと手でめじりを拭いながら笑い、また来ますね~!と手を振って美容院を出た。

その夕方、私はいつもに増して疲れていた。心が疲れていた。その感覚は号泣したあとのような感覚だった。

朝のパパとの会話でこっそり心が泣いたことが、午後の泣き笑いと結びついて、朝隠していた「泣きたかった」という気持を押さえずに出したからかもしれない。

アメリカから送った父の日の少しのプレゼントが届いた数日後の父の日当日に、パパにはオンラインで気持ちばかりのものをオーダーしていた。それはフカヒレラーメン


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パパの傘寿のお祝いをしたいためにわがまま言って帰国させてもらった今年の2月、家族皆でお墓参りに行った時のことだった。お墓参りを済ませた後、中華料理屋さんでお昼を取ったのだが、パパはメニューにない「フカヒレラーメン」を食べたかった。お店の人に聞くと「メニューにはありませんが、キッチンに行って出来るかどうか聞いて来ますね。」と。そして戻って来たその人は「出来るそうです。」とパパに伝えた。「いくら?」とパパが聞くとその値段はなんと4800円!ラーメンで4800円!パパは諦めてその時、あんかけ海老そばを食べたのだ。

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だから日本から何か送ると決めた時、フカヒレラーメンを送りたい!と思った。配達完了のメールがこちらに届いた父の日の朝、それと同時にまたあのフェイスタイムの独特のメロディーが流れた。
パパだった。

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フカヒレラーメン、届いたよ!日本橋って書いてあるよ!
さっちゃん、ありがとね。目黒でパパが食べなかったからでしょ?
さすがママ。ママは覚えていたようだ。

フェイスタイムに映し出されたパパの笑顔は本当に嬉しそうで、私の心は今度は嬉しく泣いた

そして数日後、ママから「フカヒレのおそば」というタイトルのメールが届き、パパがフカヒレラーメンを食べている写真が添付されていた。

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食も細くなって来て私が帰国していた時には「これからお昼は抜いて、1日2食にしようかなぁ。」なんて言っていたパパが、ママの言葉を借りると「昨日から『明日はフカヒレそばを食べよう』」と言っていたらしい。そしてママと美味しく堪能してくれたようだった。良かった。

パパ、父の日ありがとう。いつも心配してくれてありがとう。優しい笑顔をありがとう。

何時だったか、私にでは無いがパパがこう言っていたのを覚えている。

親に心配をかけるのは一番の親不孝だ。親孝行したいと思ったら、親に心配をかけるべきではない。

私は親孝行をしたいと思っているのに、パパに親不孝ばかりしている。
パパ、まだまだ元気でいてください。私が親孝行が出来るように成長するまで元気でいてください。


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フェイスタイムで最後の最後までこちらに向かって手を振っていたパパの笑顔が忘れられない。

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