ヴァージニア日記

アメリカで過ごす中で、毎日感じたことを記します。

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オレンジ色のセーター。

「カシミヤ」は高価なものだというのは、子供の時から聞いていたから知っていた。シンプルでも質の良いものが好きなパパがそう言っていた。「カシミヤ」を高価なものだと理解し、そして大人になり、そして就職して初めて「カシミヤ」を肌で知った。柔らかい。温かい。

私はパパと違って質よりもデザインを重視する。だから多少質が悪くても、自分の心にグッとくるデザインの洋服や物に手を伸ばす。大抵、カシミヤを使ったものは、高いがゆえにシンプルで長く愛用するようなデザインになっているから、私の目には留まり辛いのかもしれない。本当はそういうものを買った方が、ゆくゆくは重宝すると分かっているが、なかなかそういう「大人な」ことが出来ないでいる。

このセーターはね、着心地が良いだけでは無くて、優しさに包まれているような気持になるんだよね。

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毎回このセーターを着るとそう思う。大好きな色、サーモン系のオレンジ、そしてシンプルなデザイン。だから飽きずにもう何年も大事に着ている。実はこのセーターは私に袖を通される前は、私の心友であるかりんが着ていたものなのだ。かりんが10年ほど前にくれた、かりんのおさがりだ。だからもう10年以上は、シンプルなデザインを活かしてこうして長く愛されているのだ。

あの時、体調が悪いまま帰国した私は、心を癒しにかりんのお家に泊まりに行った。今よりも10キロほど痩せていて、何枚服を着ていても、いつでも寒かった。持っていた服は全て大きくなってしまい、でもまだ節約生活の名残を残していたために、新しい洋服をなかなか買えないでいた時だった。

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そんな話をかりんのお家でしていたら、実家に帰ってからかりんがいくつかもう着ないという洋服を私に送ってくれたのだ。赤いコート、白いウールのコート、モヘアの白のセーター、クリーム色のワンピース。そしてその中にこのオレンジ色のセーターがあった。

これを着るとなぜか私は腕組みをするように左手で右腕を、右手で左腕を触るような恰好をする。だって柔らかいから。気持ち良いから。だって何だかかりんといるみたいだから。

そして気づいた。
あ、これはかりんだ!
そうだった、かりんはカシミヤが好きだった。共に同じ会社で働いていた時も、セールになってもまだ高いカシミヤのワンピースをかりんは買った。帰国するたびに、腕を組んで歩く私達で、私がいつも組んでいる腕はこの柔らかいカシミヤの感触だった。

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かりんからもらったセーターだからかりんを思い出すのはもちろんだが、カシミヤの温かさと柔らかさが「かりん」だったからさらにかりんを想い出し、胸が温もりに包まれるのだ。

そう気づいたのは、哲が帰国する前日に車に乗っている時のことだった。オレンジの袖を通した自分の腕を触りながら、かりんを想っている自分に気付いた。

哲も無事に日本に到着し、こちらは桜も蕾を膨らまし春めいて来ているが、まだ肌寒い朝だった。私は帰国中の哲に内緒で教習所に颯爽と向かっていた。哲を敷地内の駐車場で見送った足で、涙目の私はそのまま教習所へ向かい、「免許を取りたいのですが」と言い、テキストをもらってきた。そして、哲の不在中にいろいろ予定していたことの合間に時間を見つけては、テキストを広げ、ピンクの蛍光ペンでラインをひき、必死に頭に入れ込んでいた。試験を受ける日を自分の中で決めた。

数日後、その日となり、これ以上勉強しても得点には変わらないだろう、、と思った私はテストを受けに行くことにした。何を着て行こう。あ、そうだ。私はオレンジのセーターを選び、その上にさらにかりんからもらった白いモヘヤのセーターを着た。あったかい。そして教習所の8時の開始時間に合わせて家を出た。

まだ8時前だったために、外でしばらく並び、そして中に入り書類を受取り、それを提出し順番を待った。視力検査を受けた後、コンピューターの方へ案内された。
はい、7番ね。7番に座って試験受けて。グッドラック。

全く心のこもっていない「グッドラック」という言葉を受け、席に座りかけたがその前に念のためにと「ちょっとお手洗いに行って来ます!」と言い、お手洗いに行き、そして気合を入れて7番席に腰掛けた。斜め後ろには高校生らしき子が受けている。

一連のスクリーンタッチの練習後、試験が始まった。受ける前は受かる自分しか想像していなかったから、正直途中で意外な難しさに驚き「こんなはずでは無い」と焦ったが、一生懸命、頭に入れていたことを思い出していた。私はコンピューターの選択肢を吟味しながら右手で柔らかい左腕を触っていた。柔らかい。温かい。

パスした。

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教習所に向かっていた時、帰りは嬉しい気持ちで歩いていますように!絶対にそうでありますように!と願っていた私は、その通りの嬉しい気持ちで同じ道を歩き家に向かっていた。いつもであればすぐにでも哲に報告したいところだが、哲は日本にいる上に、今は夜中だ。そして哲の他にもう1人、頑張ったよ!と報告したかったのが、オレンジのセーターの温もりを持ったかりんだった。

そんな朝を迎えていた日、午後に小包が届いた。かりんだった。

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哲が帰国して寂しくしているであろうと、私を元気づけるお菓子や酵母を送ってくれたのだ。発酵に時間のかかる酵母のパン作りをゆっくりと楽しめるように、哲がいない「時間」が早く過ぎますようにと。

そして私はかりんに小包が届いたことを告げるお礼のメールを書いた。

本当に本当にありがとね、、。
(小包を受け取って)かりんが側にいるみたいに感じたよ。
今日はまたまたかりんのセーター(2枚重ね着)を着て、実は、、
仮免取って来た~!
哲にも内緒。
いひひ。
無事にテストをパスしたよ!
本当にありがとね。


かりんのセーターを重ね着してかりんを側に感じた日、小包を受け取ってかりんが側に来てくれた。

オレンジ色のセーター、この冬はもう着ないかな。
また手洗いして、丁寧にしまっておこう。
また来冬。

かりん、オレンジ色の温もりをありがとう。

カシミヤって温かい。それは心友の温もりだった。


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私達のトラディション。

サンクスギビングってやっぱりアメリカ人が一番好きなイベントだよね。
それぞれの家にトラディションがあるからなんじゃない?ほら、おせち料理みたいにさ。各家庭の個性があるから。
そう言えば、メキシコ出身の患者さんはターキーの味付けはメキシカン、そして次の日はそのターキーを使ってエンチラーダ、そして二日後の土曜日はあの有名な北京ダックのレストランに行くのが毎年のトラディションなんだって。

ふぅん。

サンクスギビングの次の日、キッチンで夕食の準備をしながら考えていた。昨日は哲の意見に「そうかなぁ、、。」なんて言った私だが、確かにトラディションがあるからさらに「家族」は温もりと懐かしみのある良いものとなるのかもしれない。その家族だけの何か特別なもの、他の家族にはないルール、しきたり、習わし、それらが家族を一つにまとめる力を持っているのかもしれない。そして離れているとそのトラディションを持っている「家族」が恋しくなるのだ。

ミシガンに住む友人はサンクスギビングには毎年恒例で、近所の方たちがパイを持ち寄ってパイパーティーをすると言っていた。なんてユニークなトラディションなんだろう。そしてその後、男性と子供達はアメリカンフットボールをプレイし楽しむと言う。きっと毎年この時期になると近所ではその話で持ち切りとなり、遠くに住む家族もそのトラディションを楽しみに家に戻って来るのだろう。

でも一体、トラディションと呼べるようになるにはどのくらい繰り返す必要があるのだろうか。そして私達にはトラディションがあるのだろうか。

今年も『私達のトラディション通り』、サンクスギビングはもし空いていたら是非私達と一緒にランチしてくださいね。
そう、誘いがかかったのは数か月前のことだった。

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アメリカ人にとってクリスマス同様にとても大切な行事であるサンクスギビングがやって来た。ハロウィーンが終わり11月に入るとみな気持はサンクスギビングへと向かい、2週間前になると目にとまる宣伝文句や文字はほとんどがサンクスギビング関連のものとなる。そして、美味しいものを囲み家族が集うサンクスギビングがどんどん近づくにつれ、私はどんどん家族が恋しくなる。哲はお正月が一番「家族」が恋しくなると言ったが、お正月は「お正月」という日本の行事自体への恋しさも加わるから、純粋に家族が恋しくなるのは私はこのサンクスギビングの時期なのだ。そんな家族がお互い以外ここアメリカにはいない私達に、ドッグパークで知り合ったリンダ「一緒にサンクスギビングにランチしませんか?」と誘ってくれたのは5年前のことだった。

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その年以来、サンクスギビングが終わったらすぐに「来年も今から空けて置いてね。」とリンダは言ってくれ、そして今年で5回目のランチが楽しく終わった。でも今年は「来年への」いつもの誘いの言葉はリンダの口から出て来なかった。なぜなら、リンダとポールは年明け早々に西海岸に引っ越ししてしまうのだ。だからこれが二人と最後のサンクスギビングで、やっと出来上がって来た「私達のトラディション」今年で終わってしまうのだ。

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ハルもクルミも、そして誰よりも私達がお世話になった(←クリック)リンダとポールは、私にとっては家族同様の存在でその二人が遠くへ行ってしまうことは、今から心にぽっかりと穴が開いてしまう程寂しく、考える度に涙が出て来てしまう。初めてサンクスギビングに招待して頂いた時は「JUST 嬉しい招待」だったのが2年目には「また!」となり、そして3年目には「えー、今年も!!」となり、4年目には落ち着いてその招待を嬉しく受けることが出来、そして今年、晴れて「私達のトラディション」となったのだ。そのトラディションを失ってしまう悲しさ、、、、やっとできた家族のトラディション。

二人でアメリカに住む私達にとって、家族としてのトラディションはもしかしたらこのサンクスギビングの恒例ランチが初めてだったのかもしれない。朝、起きてきたらまずキッチンにいる私の所に哲が来て「おはよう」と言う日々の習慣とは違い、年に1度、もしくは何か特別な時にだけ行われるトラディション、いつか私達にもまた出来るのだろうか。我が家のトラディションをこれからもっと増やしてもっと『家族』になりたいと思った少し切ないサンクスギビングだった。

来年からまた作り直し新しく始まる私達のサンクスギビング、一体どんなものになるのだろう。
ねぇ、あんなことしようか?こんなことしようか?
今から考えてもどうなるか分からないよ!
はぁい。。。。。

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変ってないね。

どんなに仲の良い友達だって久しぶりに会う時は緊張する。初めて人に会う時ももちろん緊張するが、違う種類の緊張だ。もしかしたら、初対面の場合よりもドキドキするのかもしれない。なぜなら初めて人に会う時は、「今の自分」「自分」だが、自分を昔から知っている人に会う時は、「昔の自分」を指標に「自分」と思われ、「今の自分」と比較されるような気がするからだ。誰も何も期待などしていないのに、成長していなければ期待を裏切るようで、ましてや後退していればがっかりさせてしまうようで。それは見栄っ張りだからだろうか。会っていない間に流れた時間があるのに、過去の一点今の一点で比較されるのが何となく怖く、「変ったね」「変ってないね」とどちらの言葉を言われても、嬉しくも哀しくも無い複雑な気持ちとなるのだった。

今回の帰国でも何度と無く「変ってないね」と言われた。その言葉のほとんどが良い意味で言ってくれていると信じるが、それでも自分としては「変ったのに!こんなことも、あんなことも経験してあの頃の自分とはこんな所も、あんな所も違うんだよ。」と2年、10年、20年の歳月に何が起こったのかを説明したくなる。だけど、もちろんそれは無理なこと。そして、それはお互い様なのだろう。だから、「そうかなぁ。」という一言で丸く収める

おそらく15年以上ぶりになるのだろう。大学時代、大学が違うのにテニス目当てでほぼ毎日のように会っていたヨシエに会った。お互いにいろいろな場所を転々と移ったために、住所も分からずいつの頃からかクリスマスカードも送ることが出来なくなっていた。今回の帰国で関西に行くと決めた時、風の噂で「ヨシエは岡山にいる」と聞き、何とか芳枝の居場所を突き止めた。そして、会えた。

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岡山に住むヨシエが京都まで出てきてくれたあの日、「変ったね」と言われたいのか「変ってないね」と言われたいのか分からない気持ちを持ちながら、珈琲店の椅子に腰掛けヨシエが来るのを待っていた。
うわぁ、良く来てくれたねぇ。久しぶり!

この15年、ヨシエは仕事を続けながら2人の母となり、私同様あれもこれもいろいろあったに違いないだろうに、そんな芳枝に「久しぶり!」の挨拶の後に私が最初に言ったのは「変ってないね」という言葉だった。そう、あの頃と変らぬ陽気な笑顔、顔全体でクシャッと笑うようなあの笑顔、そしてその裏にある芯の強さ。今は「母としての強さ」も加わり、温かみのある強さとなっている。あ、芳枝、変ったんだ。

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15年と言う歳月をあっという間に埋め尽くしてくれた2時間弱。無理して会って貰って本当に良かったと思えた時間だった。

あれからもうすぐ一ヶ月。そう言えば、、ヨシエ元気かな。キッチンでふとそんなことを思っていた昨日、アメリカに戻って来て以来初めてヨシエからメールがあった。
明るい調子で書かれたメール、可愛い二人の子供たちの様子を想像しながら楽しく読み進んでいた私は、途中の部分、きっと芳枝も言葉を選んだろうな、、と思われる文章を読んでがこぼれて来そうになった。

あだちの柔らかくも突っ走って頑張る感じと一途なところ、親身になってくれるところが大好きだけど、それが今もしっかり感じることができて嬉しかったな。上野さんがそのあだちをしっかり包み込んであげてる感じの二人の仲の良さもそのままで、羨ましいって思ったよ。

大学生の若い頃にはお互いの良いところなんてわざわざ口に出したりしないから、ヨシエが自分のことをこんな風に見てくれていたのにも驚き、そしてそれを今も「しっかり感じ」てくれたこと、哲が観ているオリンピックの大きな音を耳にしながら、じーんと来たのだった。

これからも離れていても、ずっと友達でいてね!!
ずぼらな私なので、マメな連絡はできないかもだけど…そこは多目にみてー!


15年会っていなくてもずっと「親友」だったんだから、これからもずっと「親友のまま」だよ。

また会えますように、そして今度会っても「変わってないね」と思ってくれますように。


おまけ

それにしても哲は、、、


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(高校時代の友達と)
変ったんだか 変ってないんだか、、、

真剣な顔して麻雀中。。

体温計。

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熱っぽい。うううん、熱がある体温計で測る必要は無い。だって熱があるって感じるから。
哲に相談する。

「どんな感じ?」
「うーん、、体の奥がぞくぞくして、、暑いというよりは寒いかな。」
「喉は?」
「痛くない。ただ熱っぽい。熱がある。鼻の奥から喉に何か詰まっているような感じもする。」
そして私は漢方をもらう。

中医学では「自分がどう感じるか」が大事なのだ。例え体温計が「36度です。熱はありません。健康です。」と言っていても、熱があるものは熱がある。自分がそうだと思ったらそれは立派な「熱」なのだ。何かと比べたりする必要も無いし、何かで計る必要も無い。それは熱だけでは無くて、人の心も同じこと。

頑張り屋でいつも全速力で突っ走っている友達が珍しく悩んでいた。悩んでいたのが珍しいのではなく、悩んでいることを、苦しんでいることをみんなに伝えたのが珍しい。それほど彼女はいつでも弱音を吐かずに頑張っていた。相当辛い思いをしたんだろうな、、と思うと胸が痛くなった。そしてその彼女はこう言っていた。「今まで全力投球で頑張ってきたけれど分かってもらえない。どうして?でも、そんな時、もっと頑張っている人を見て、自分はまだまだだと思った。」と言っていた。
うううん、それは違う!私は心の中で叫んだ。

自分で『全力投球で頑張っている』と思っているのだったら、十分もう頑張っているんだよ。誰かと比べる必要は無いんだよ。同じ事をしても辛いと思う人もいれば、楽ちんと思う人もいる。要は自分の心。「36度だから熱は無い」のでは無くて、36度でも熱だと思ったら熱、同じように「誰かよりも頑張っていないから、、」なんて測れる機械は無いんだよ。自分の心が決めるんだよ。頑張っているなら自分で自分を誉めてあげれば良いんだよ。

悩んでいた友達から見たら私の生活は「楽」に見えるだろうし、私から見たらその友達の生活はどう頑張っても出来ないような神業的な生活ぶり、でも比べるものでは無く、どちらが大変でどちらが幸せでどちらが辛くどちらが良いという物ではないのだ。

以前は何かと言うと人と比べていた。あの人に比べたら私なんてまだまだ。何を贅沢言っているんだ。何を弱事言っているんだ。もっともっと頑張らなくちゃいけないんだ。
そうして、自分より頑張っていると思われる人、自分より大変な思いをしていると思われる人を心に置き、それをいつでも思い出すように生きていた。そのことによって励まされる時もあるけれど、無理をしているには変わりなく、また哀しくなり辛くなり、同じことの繰り返し。どこまで言っても「花丸」はもらえない生活を送っていた。

自分の考え方を変えるにはとても時間がかかる。でも私はゆっくりゆっくり、そんな考え方を変えて行った。自分が辛いと思えばそれは辛いんだ。大変だと思えば、誰が何と言おうと大変なんだ。周りから見たら「あの人、あんな楽な生活していて何を言っているの。」と思われるかもしれないけれど、気持ちの尺度は自分の中にある。自分を甘やかす、、というのではなく、周りに影響を受けず生きていく術を少しずつ学んでいったのだ。

いわゆる「大変な思いをしている人」の口からは「あの人に比べたら私は幸せだと思う。」と聞くことが多い。同じことをしていてもそれを幸せと感じる人と、辛いと感じる人がいるのが人間という物だから、誰かと比べて幸せなんてことは絶対に無いのだし、比べる必要は全く無い。もちろん生活や受けている物に感謝することは大事だが、幸せを計る必要は無い。

医者からは何の病名ももらえなかった可哀相な患者さんが哲を尋ねてくることは多い。病名をもらうと安心するのが人間と言うもの。安心するための病名をもらえず、でも具合が悪く、どうして良いのか分からずにやって来る。そして、哲はその患者さんの感じることを丁寧に聞き、そして処方する。
頑張りだって誰が何点と点数をもらえることは無い。だから、哲が患者さんにしている仕事を自分が自分にしてあげなくてはならないのだ。自分で点数を付けてあげ、そして誉めてあげることが最高のお薬。

一人一人の人間は違うのだし、辛さや幸せを計る必要は無い。便利な世の中には便利な機械がたくさんある。でも、一番大事なのは『自分を感じる』ということなのではないだろうか。

熱は無いと思うけれど熱がある。哲、何飲んだら良い?そして私はまた訊ねる。


空っぽの箱。

どんなに恋しいか、どんなに感謝しているか、どんなに嬉しく思っているか、どんなに愛しているか、、、、、。
伝えたい人が遠くにいる私はどうしたらそれらの気持ちを上手に伝えることが出来るのだろう。

幸いにも人間には「言葉」というものがあるから思ったことを口にし、自分の気持ちを表すことが出来る。しかし、コンピューターで平仮名から漢字変換をするようには、気持ちから言葉への変換は簡単では無く、ともすると思っていたこととは裏腹な言葉を出してしまったり、思ったことを上手に伝えたと思っても勘違いされたりすることがある。だからハルのようにただ尻尾を振る方が単刀直入に明快に気持ちを伝えることが出来るのかもしれないが、残念ながら人間には尻尾は無い。人間だったらハグなるのだろうか。でも、近くにその人がいなくてはならないから、ハグはなかなか使えない。

数年前のことだった。いつも大事に思っているのにそれが上手に伝わらず、私は大事な人を傷つけたことがあった。伝わっていないどころか、その人を傷つけていたと知った時の哀しさは、今思い出しても胸が締め付けられるくらいに苦しくなる。だから言葉は難しいのだ。

言葉で伝える以外にも気持ちを届ける方法はある。私は誰かに何かを伝えたくて言葉の手紙と共に贈り物をするのが大好きだ。その人のことを思ってその人が好きだろうなというものを選ぶ時、その人の笑顔が浮かんでとても温かい気持ちになれる。

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ママはいつも海のこちら側にいる私にいろいろな物が詰まった大きな箱を届けてくれる。常に二階の仏壇がある「仏様のお部屋」には佳世ちゃん、のりちゃん、そしてわたし様のダンボールが並んでいて、少しずつ私達のことを思って買ったものを詰めてくれているらしい。そして、その箱が一杯になったら出荷作業。出荷し終わると、また新しい箱を組み立ててそこへ置いているようだ。
そんなママの気持ちがたくさん詰まったダンボールが届いた時、申し訳ないと思うと同時に私の心は踊り、箱から一つ一つ物を取り出しては涙を出しそうになりながら大きな笑顔を浮かべている。
そして、そんなママに私も似たのか、「仏様のお部屋」は無いけれど、使われていない「ゲストルーム」にはいつでも様々な大きさの箱が並んでいる。私もいろいろな人のことを思い、箱に物を詰めていくのが好きなのだ。物に乗って私の気持ちが届くように。。

私の気持ちを乗せた物は無事にその人の元に届いて誤字変換無く気持ちを運んでくれるのだろうか。「ほんの気持ちです、、ほんの少しの気持ちです、、」と思って選んだ物達に代って、本当にその「ほんの少しの気持ち」を届けることが出来たならどんなに素晴らしいだろう。

明日から12月。そんな時、あわてん坊のサンタクロースからクリスマスプレゼントが届いた。箱に書かれた文字を見てすぐに送り主が誰だか分かり、そしてその丸い可愛い字を見ながら心が温かくなった。かりんだ。箱を紐解く前に「クリスマスまで待とうかな」と思い、かりんにどうしたら良いかメールした。

「さっぴょんにあげたいなぁって思っていたものがいっぱいになったのでクリスマスをかねてお届けしたので開けてくれて大丈夫ですよ!」

かりんもママが私にしてくれるみたいに、少しずつ「私」を思って集めてくれていたんだ。
その言葉に甘え、12月に入るや否やその箱を紐解くと、箱の中には私のことを思って選んでくれたのだろうなぁ、、と思う素敵な物がたくさんたくさん詰まっていた。私の性格、生活、好みを知って、いろいろな場所から集めてくれた宝物
さらにかりんのメールにはこう書いてあった。

「さっぴょんへの気持ちがいっぱい詰まっているので箱だけでもツリーに飾ってください。」

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「気持ち」がいっぱい詰まった箱。
そう思って空っぽになった箱を除くと、、、
ほんとだ、気持ちが一杯詰まってる。
空っぽの箱なのに、気持ちが一杯詰まっていた。
空っぽでも気持ちが見えて、心がピンク色になった。
これが「気持ち」なんだ。

空っぽの箱に気持ちを込めて送ることが出来たなら、どんなに素敵なプレゼントになるのだろう。
物や言葉に力を借りずとも、気持ちを直接送ることが出来たなら。
そして、私は空っぽの箱に、今日も誰かを思って物を入れた。

かりん、気持ちをありがとう。
宝物が出てきた空っぽの箱は一番嬉しい贈りものでした。


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